アフガニスタンの イスラエル10部族の行方
                                                    2016年11月15日



  (1) アッシリア捕囚が連れて行かれた先:


  ① Ⅰ歴代誌5:26

   「そこで、イスラエルの神は、アッシリヤの王プルの霊、すなわち、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルの霊を奮い立たせられた。 それで、彼は ルベン人ガド人、および マナセの半部族を捕え移し、彼らを ハラフと、ハボルハラゴザンの川に 連れて行った。 今日もそのままである。」


  734年?サマリヤ包囲(1回目)、732年? ダマスコ支配と同時に 最初の捕囚が行われました。 アッシリアのティグラテ・ピレセル3世(744-727、Tillegath-pilneser(KJV)、Tiglath Pileser III(現在の英語読み)): 「プル王」と 「ティグラテ・ピレセルⅢ」は同一人物。 ティグラテ・ピレセルの アッカド語:トゥクルティ・アピル・エシャラ を極端に短縮した名前が プル(蔑称)。

  この時、ルベン人ראוּבֵנִי、レウベニー、Reubenites)、ガド人גָּדִי、ガーディー、Gadites)、マナセמְנַשֶּׁה、メナシェー)の半部族(the half-tribe of Manasseh、= ヨルダン川のにいた半部族)は、 ゴザン川(古名)(現在のハボル川(Habor))の流域へ連れて行かれました。

  ヘラッフ: חְלַח Helah (=”painful” 苦痛)、
  ハーボール: חָבוֹר Habor (=”joining” つながる)、 ハーラー: הָרָא Hara (=”mountain land” (アッシリアの)山地)
  ゴザンの川: נְהַר גּוֹזָן (ネハッル・ゴーザーン、נָהָר ナーハール river) Gowzan (=”a cutting off”、切り離し) 現在の テル・ハラフ、 גּוֹזָן(ゴーザン)は エデンの民のいた所(Ⅱ列19:12、 イザヤ37:12)

  ・・・・・ これらの町は(現在の)ハボル川(ハブール川、カブール川、Habor、Khabur、 ユーフラテスの支流・トルコ南東~シリア)の流域(ゴザン、ハブル)、またチグリス川の流域のニネベに近い所(ヘラッフ)にあります。
  このルベン、ガド、マナセの東半分の民たちは、解放後に 北の 黒海のクリミア半島に移動しました。
    cf. アフガニスタン西北部のヘラ-トは、 Herāt (パシュート語で Harī Rūd - ハリー・ルード)であり、スペルが違う。



  ② Ⅱ列王記17:6、 18:11

   「ホセアの第九年に、アッシリヤの王は サマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕え移し、彼らを ハラフと、 ハボル すなわちゴザンの川のほとり、 メディヤの町々に住ませた。」


  BC721年 = ホセアの第九年( = 南ユダのヒゼキヤ王の第六年)に、息子のサルゴン(シャルキン)2世(722-705、Sargon II)によって、 サマリアが陥落し、十部族の残りのうちの高位者たちはアッシリアの地に連れて行かれ(*)、その後の消息は不明。(聖書にも書いていない。)

  メディアの町々: עָרֵי מָדָי アーレイ・マーダーイ the cities of the Medes、  メディア王国(BC715-550、 cf.バビロニアの次の メド・ペルシャは、538-331)は、トルコ東部からシリア・イラン・アフガニスタン西部まで広がったイラン原住民の国。 ヤペテの子孫(בְּנֵי יֶפֶת ベネイ・イェペス)の「マダイמָדַי)」(創世記10:2)と同じ。(ミデアン人(מִדְיָן Midian、セム系)ではない)


  また、ヨナ 660年頃、 悔い改めた王 アッシュル・バニパル?(668-627)、  (その50年後) アッシリア滅亡 BC612

  * アッシリアに連れて行かれたのは高位者のみで、残されたイスラエル人と、強制移入させられた移民(バビロン、クテ、ハマテなど(Ⅱ列17:24))との間に生まれた人々が”サマリア人”です。(新約当時の「良きサマリヤ人」もこれ) 彼らの容貌はユダヤ人と違い、御子イエス様の当時は ユダヤガリラヤサマリヤの3つに分かれ、言語も彼らは アラム語を話し、ユダヤとは犬猿の仲だった。 サマリヤ人は、現在も相変わらず ゲリジム山で犠牲をささげている。 近親結婚を繰り返したため知恵遅れが多い。


 




  (2) アミシャブが認めたアフガニスタンの8部族:


  イスラエルの失われた十部族を探し、イスラエルに帰還させる特務機関、アミシャブAmishav、1975年設立、ラビ・アビハイル氏はその幹部)による調査結果。
    ・ (参考文献) 「失われたイスラエル10支族」、ラビ・エリヤフ・アビハイル著、学研、2005 9

  パシュトゥン人Pakhtun、パタン族、アフガン人Afghān とも呼ばれる)の人口は約1500万人で、大部分はアフガニスタン(800万人、人口の45%/アフガニスタン)とパキスタン(1000万人、人口の11%/パキスタン、国境付近の200万人は遊牧民)に住んでいて、一部はイラン、インドなどにもいます。 外見上ユダヤ人に似ていて、アミシャブもこのパタン族について特に重要視しています。 パキスタンのパシュトゥン人は、アフガニスタンよりも高所得者やエリートが多く、アフガニスタンと一線を画す傾向があります。

  アミシャブの調査の結果、パシュトゥン人の部族名の中に、イスラエルの失われた十部族を思わせる名前が存在することが知られています。

  ラバニ族(Rabani)=ルベン(רְאוּבֵןReuben)、 シンワリ族(Simwari、パキスタンの地名にも)=シメオン(שִׁמְעוֹןSimeon)、 レヴァニ族(Levani)=レビ(レヴィ)(לֵוִיLevi)、
  ダフタニ族(Daphtani)=ナフタリ(נַפְתָּלִיNaphtali)、 ジャジ族(Geadi?)=ガド(גָּד、Gad)、 アシュリ族(Ashri)=アシェル(אָשֵׁר、Asher)、
  ユスフ・ザイ族(Yūsafzay、Yusuf Zai はパキスタン、インドに多い名前)=ヨセフ(יוֹסֵף、Joseph)、 アフィリディ族(Aphiridi)=エフライム(אֶפְרַיִם、Ephraim)


  また、彼らの伝承によれば、彼ら自身が「バニ・イスラエルイスラエルの子らבְנֵי-יִשְׂרָאֵל (創世記46:5))」であるといいます。 彼らは、イスラム教徒(スンニ派)に改宗しているが、旧約聖書を持ち、生後8日目の割礼(cf.イスラムは8日目ではない)、フリンジ(fringes、着物の四隅につける ふさ、גְּדִלִים (ガディリーム、申22:12)、or צִיצִת (チーチス、民15:38))のついた衣類、サバト安息日שַׁבָּתSabbath(シャバース))、ヘブライ語の名前(イスラエル(יִשְׂרָאֵל (イセラーエル)、Israel)、サムエル(שְׁמוּאֵל (シェムエル)、Samuel)、ガブリエル(גַּבְרִיאֵל、Gabriel、ただし彼らの発音は ジョフリール)、その他有力者の家系図には アダム、アブラハム、モーセ、ダビデ等の名前がある、など)、食物の清浄・不浄の区別、門柱に血を塗る、贖罪の山羊などの、典型的なユダヤの慣習を持っています。 またその言語にもヘブライ語起因の単語が数多く含まれています。 ・・・・・ 合計8部族。


  また これらに含まれていないマナセ(מְנַשֶּׁה (メナシェー)、Manasseh)族の残りは 中国経由でミャンマーなどにいて、アミシャブに認められ、一部 帰還し始めています。 ダン(דָּן、Dan)族は エチオピアのベト・イスラエルで、帰還中。(ダン族は黙示録の12部族にいない。 エチオピアからの大量移民のためイスラエルの教育水準が下がったといわれる。)
  イッサカル(יִשָּׂשכָר、Issachar)、ゼブルン(זְבוּלֻן、Zebulun) はいません。( ・・・ 未だ 行方不明)  レビは、北イスラエルのヤロブアムから逃げてきた祭司たちと共に、南ユダのエルサレムのレハブアム側についたはず?(Ⅱ歴代誌11:13)  ヨセフ = エフライム+マナセ。

  一方、「南ユダ」=現イスラエル人 は、ゼルバベルによるバビロンからの帰還の時から、 ユダ(יְהוּדָה (イェーヴダー)、Judah)、ベニヤミン(בִּנְיָמִין、Benjamin)、レビ の3部族で構成されています。



  * パシュトゥン人のY染色体DNAは、 R1a(東欧) 51%、 Q(アメリカ先住民、パシュトゥン人は南北アメリカ先住民の祖といわれる) 18.4%、 L(パキスタン) 12.2% であり、 中東ユダヤ・オリジナルの 数%(10%以下)と、あまり多くありません。 mt-DNAは不明。

  * 2014年ノーベル平和賞受賞の、パシュトゥン人女性、マララ・ユスフザイ氏(当時18歳、(英語)Malala Yousafzaiパシュトー語Yūsafzay))は、”ヨセフの子孫”の意味の名前ですが、彼女の手記によると、『パシュトゥーン人は イスラエルの失われた部族の末裔だと信じる人々もいる。』 程度の割合だそうです。

  ただしパシュトゥン人の人口が多いので、たとえ今のイスラエルに帰還しても入りきらず、ゴグ・マゴグの後の領土拡大後に帰還するようになると思われます。




  (3) イスラエル十部族の 解放後の歴史:


  アミシャブによって、パシュトゥン人の中に イスラエル十部族の末裔がいることが明らかとなりましたが、彼らがどのように ヘラッフ、ハボル川、メディアの町々から、アフガニスタンやカシミール地方に移住したかは謎です。
  伝承によれば、パシュトゥン人は、元々 アフガニスタン南東部のカンダハールの東の、クーヒ・スライマン山脈Koh-e Sulaiman、アフガニスタン-パキスタン国境に沿う山脈)の近くから、BC2世紀ごろ(・・・ 明らかにイスラムが伝わるはるか以前)に 現在のイランの東まで移住してきました。
  (by. ヴィレム・フォーヘルサング著、『アフガニスタンの歴史と文化』 (前田耕作、山内和也監訳, 世界歴史叢書, 明石書店、2005年4月 の 37-38ページ。 * ヴィレム・フォーヘルサング: 1956年生まれ。ライデン大学(オランダ)で古代インドとイランの諸語を学び、1990年にフローニンゲン大学で博士号を取得。現代はライデン国立民族博物館の学芸員)

   この スライマンとは、「ソロモン」の意味で、かの昔 ソロモン王が訪れたことに由来します。 (パシュトゥン人のイスラム化は10世紀頃で、ずっと遅い。) ソロモン王の船団は毎年インドに来て、この地にも来たと思われます。(アカバ湾のエツヨン・ゲベル(Ⅰ列9:26)からタルシシュの船団 ・・・ 「くじゃく」(Ⅰ列10:22)は、インド原産。 アフリカにはいない。)


  キルギスの第2の都市、オシ(Ош)の街中にも、フェルガナ渓谷の平地に単独で現れる スライマン・トー(スライマン(スレイマン)の山)と呼ばれる岩山があります。 キルギス語でもスライマン(Сулайман)はソロモンの意味で、ソロモンが逗留した古来の伝承(・・・イスラム化以前の古い伝承)により、18世紀にこの山が名付けられました。(ソロモンはイスラム教では預言者扱い。 近くのモスクは1510年建造。)
  キルギス人は日本人と顔がよく似ています。 ただし、日本の”諏訪”(=スワイマン?)との関係は不明。 キルギスは、平安時代以前に日本に渡来した秦人の「弓月君(ゆづきのきみ)」(聖徳太子の謎 2.)の出身地、弓月国3-6世紀・キリスト教国、西突厥の一部、今の カザフスタンの東部)に接しています。
  弓月国が(吐蕃(チベット)とともに、)唐に敵対する国として存在したことは、資治通鑑や新唐書(戦い651年から数年)に書いてあり、飛鳥時代(592-710)頃に日本に渡来した ”秦の始皇帝の子孫”を名乗る秦人が”弓月王”であることは、新選姓氏録・諸藩(815年)に書いてあります。 (後漢書(5c)の辰韓(新羅)にも”秦の逃亡民”を名乗る民がしばらく定住していたが、年代が合わない。)

  「マナセ族」、「エフライム族」を含むいくつかのグループは、山岳を避けて唯一 中国のほうに行くことができる この アフガニスタン北部を通る”オアシス・ルート”を通って行ったと思われます。 黒海北部や東ローマに通じる ”北ルート(草原ルート)”とも、この先で合流します。 (1)①の 最初の捕囚の民、ルベン、ガド、マナセの半部族は、解放後 北のほうに移動し、クリミア半島にいました。(∵ クリミア半島の墓碑にそれぞれの部族由来の銘がある。) 彼らの多くもまた、この草原ルートを通って東へ移動しました。

  キルギスには、『マナス叙事詩 (Manas) 』と呼ばれる壮大な伝承が存在します。(伝承の文字化は19世紀、 ギネス一位の長い叙事詩:50万行以上、 マナスから始まり8代まで、 中華系とオイラト族との戦いが主要なテーマ、 ”マナスチ”という語り手がいる) これによると、マナセは(ヨセフではなく)ヤコブの子で、キルギス人の父祖であるということです。
  また、キルギス人は、もものつがいの上の肉を食べない(創32:32)、羊の骨を折らない(出12:46)、という習慣があり、さらに、末っ子が家督を相続する慣習があり、これはヤコブが手を交差して末の子エフライムのほうをより祝福したことによります。(創48:14)
  これらは少なくとも、マナセ族がこの地にしばらくとどまり、さらに一部は東へ移動していったことを示しています。

  * キルギスは2010年に強権政治が終わり、中央アジア諸国の中で民主化が進むことが期待されていたが、2011年に制定された新憲法の原本が紛失していたことが 10/25に明らかになり、10/27付で内閣が総辞職した。


  アミシャブが認めている、現在のマナセ族は、中国四川省(チアン・ミン族)や、ミャンマー(メナシェ族(シンルン族))、インドのミゾラム州やマニプル州にいます。 ミャンマーのメナシェ族は、自らを「ルシ(中国語で”十支族”)」と呼び、神を「ヤア」(=ヘブライ語の「יה ヤハ」と同じ)と呼び、動物犠牲、祭司、過越の祭り、贖罪などの風習があり、以前は8日目の割礼も行っていました。 ただし、トーラーは歴史の中で、中国で紛失。 近年、ユダヤ教への回帰を行って、イスラエル国に帰還した人々が多くいます。

   「見よ。 ある者は遠くから来る。 また、ある者は北(צָּפוֹן、ツァフォーン)から 西(יָּם、ヤム=(直訳)海・地中海)から、 また、ある者は シニムסִינִים (男・複)、 (シン)の国々(=中国))の地から来る。」(イザヤ49:12) ( ・・・ 「シニム、棘(thorns → סִין シーン、中国、 の 複・男)」は、聖書でここ一か所のみ)
  もちろん、マナセ族だけでなく、AD70年に散らされ、19世紀まで開封のユダヤ人コミュニティーにいた 南ユダのグループについても成就した。

  またアミシャブは、パキスタンにも、ヨルダンにある モーセがヨルダン川の向こうの低地を見渡した終焉の地、 「ネボ山、הַר-נְבוֹ」(申32:49)、「ピスガ פִּסְגָּה の山頂」(申34:1)、「ベイト・ペオール 、בֵּית פְּעוֹר」(申34:6、4:46)と、同じ名前の地名があると言っています。


 




  (4) 日本人の人種的なユダヤ性:


  日本には、文化的には 渡来人の時代に 明らかにユダヤ文化が色濃く入ってきました。一方、人種的には、オリジナルのイスラエルの民を特徴づける 男系遺伝するY染色体DNAの「J系統」が全くいません。(アシュケナジー・ユダヤ: J1 20%(アロンの子孫・J1はアラビア系)、J2(J2a) 24%、 スファラディー・ユダヤ: J2(J2a) 29%) 東アジアでJ系統があるのは、シルクロード沿いの中国甘粛省(J2、10%)、黒竜江省(J2、3%)程度。(この朝鮮半島の北にある少数民族は独特な律法的な戒律を持つ。)
  しかし、mt-DNA(ミトコンドリアDNA)については、特別なものが存在します。 山東半島人(歴史的に、臨淄(りんし)は ヨーロッパ人種(BC500)から中央アジア(BC0)、東アジア(現在)と人種が変遷した)や 北海道縄文人などのように、なんと、中東のmt-DNAが数%ずつ入っています。 この女系遺伝するmt-DNA(ミトコンドリアDNA)の「N9b」(北海道縄文人の65%、アイヌが来る前の伝説の先住民:”コロポックル”らしい。背の高さは150cmくらいで 南方系縄文人(D1b-M7a)よりも少し低い程度)が「エフライム」であり、「N9a」が新羅経由の渡来人の”臨淄人(りんしじん)”が「マナセ」の可能性があります。 彼らは日本に入ってきた時点で、すでに半分異邦人です。 ヨーロッパのアシュケナジー・ユダヤのmt-DNAは、N1b2 がオリジナルで、同じN系統で近い。 これらは、ラテン系や 西ヨーロッパの系統(H、HV、等)ではありません。 (→ 古代日本のDNA (4))

  * Y-mt: J2a-N1b2 の中にユダヤ・オリジナルがいる。 ( I (=N1 = N1a) 西ユーラシア、 N1b 中東、 N1c サウジ北部・トルコ、 N1d インド、 W(=N2)) 西アジア、 N5 インド、 N8 中国、 Y1 オホーツク沿岸)  cf. N9a 東アジア・日本(九州北部から大和)・中央アジア、 N9b 日本固有種(+ アムール川下流に少し))


  エフライムとマナセの父である ヨセフは、エジプトで祭司ポティフェラの娘のアセナテと結婚しました。 エジプトのこの時代、ヒクソス(15王朝、BC1663-1555)であり、非エジプト人のアジア系が支配していた時期なので、アセナテからの女系遺伝のmt-DNAが、他のユダヤ人の N1b2 と近い N9a、N9b (mt-DNAのN系統パレスチナ原住民)だったのは自然であると考えられます。 エフライムとマナセも その子孫たちも、ハム系エジプト人のDNAではなく、同系統の人をめとったと思われます。 このようにして、エジプト滞在中に、マナセ:N9a、エフライム:N9b という、それぞれ単一の女系DNA集団を形成していったと考えられます。( → エジプト関連のDNA (2))


   「エフライムは国々の民の中に入り混じり、エフライムは生焼けのパン菓子(*)となる。」(ホセア7:8)  ・・・・・ * 片面だけ焼け裏側が生 の意、 形式的に神・に仕え、一方では異邦・この世に頼ること。 DNAも 半分は異邦人。

  N9bが、日本に来る前に、どこで混血したかは不明ですが、おそらく モンゴルや沿海州にいたと思われる、C3a(日本固有種)の異邦人の男性にかこわれたエフライムの女性たちの子孫が、集団で北海道に渡ってきたと考えられ、男系は絶えてしまったはずです。 すなわち、C3a-N9b がいわゆる”コロポックル”。 (cf. アイヌは、C3c(15%)-Y(20%)で、南方縄文人(D系統88%)にオホーツクの民(ニヴフ族など)が入っている。 沿海州、モンゴルは ほぼ C3c。南方系日本固有種は C1a1。)

  サマリア陥落BC721と、アッシリア滅亡BC612の後、捕囚の民は解放され、民のうち東邦憧憬(太陽崇拝)の慣習を持つグループは さらに異邦人と交じりながら東の果てに移動し、海の民として北海道に渡り 定住。 彼らは 糸魚川のヒスイ(勾玉)を北海道や朝鮮半島などに運ぶほどの海運力を持っていました。(ヒスイの蛍光X線分析で、同一成分)
  その後、北上してきた縄文人アイヌ(D系統)に押されて、日本全国(特に日本海側の沿岸部)へ散っていきました。(色白で半分ヨーロッパ顔の”○○美人”) 現在は N9bは2-4%で沖縄(4%)まで広く分布しています。
  (cf. 弥生~奈良時代の 新羅からの渡来人(王族であり、対馬の国司がフリーパスで入れた)の N9a(臨淄人・もう一つの女系の中東系)は、九州北部~近畿まで分布。 他地域にはいないので、日本平均5%弱からすると かなりの割合が集中していることになります。 また、H、HVなどの 西・南ヨーロッパ系(ラテン系)は朝鮮半島には居るが、日本には王族以外は渡って来れず、皆無。)


  解放された年代直後の BC660頃に、現在の山口県あたりに神武天皇(ビコ・スメラ、のヘブライ語の意味 =”サマリヤの長子בִּכּוּר שֹׁמְרוֹן (ビクール ショメローン))”、すなわち”エフライム(サマリアが首都)の王”と自称)が現れることからも、天皇家が 元々は、この 女系エフライムN9b)の系統であることが考えられます。(この時は縄文時代で、まだN9aは入ってきていない。) その後は15代の 神功/応神あたりで、現在のD系統に切り替わったと考えられます。(→ 古代日本のDNA (5))


 




  (5) イスラエル十部族の帰還:



   「見よ。わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、それらをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする。」(エゼキエル37:19)

    ・・・・・ 最初にユダの杖があって、それに合わせるように、エフライムの杖が後に来ます。 イスラエル建国時(1948年5月)、南ユダのみ。 → ゴグ・マゴグの後、領土が大幅に広がって(創世記15:18)、残りの北イスラエルの十部族が帰還。


  日ユ同祖論や同族論が出されて久しい。 しかし、DNAデータが正しければ、イスラエル帰還は 直接的には、大部分の日本人には関係のないことです。
  そして、アフガニスタンやカシミールの人々にとっては 相変わらず重大な問題となっています。
  彼らパシュトゥン人はタリバン構成員の民族でもあり、ゴグ・マゴグの一大事件でも起こらない限り、イスラエル帰還は難しいと思われます。 また、アフガニスタンは、貧困のため特に南部地域で ケシの栽培が大々的に行われ、2014年には6400トンのアヘンが輸出され(世界の90%)、タリバンの資金源になっています。 また、国内には人口3055万人中、150万人(人口の5%)がアヘン中毒者がいるといわれています。

  今年の4/12-6/19、東京国立博物館で ”黄金のアフガニスタン展”が開かれましたが、BC4世紀のアレクサンドロス東征(植民都市アイ・ハヌム、BC300)によるギリシャ文化、1-3世紀のクシャーン朝のインド文化、2-3世紀の仏教文化など、アフガニスタン北部に”オアシス・ルート”が通り、文明の十字路だったことが示されました。




  去年(2015年)の9月23日から 今年(2016年)の10月2日まで、「ヨベルの年」(レビ25:10-13)といわれていた期間には、直接的にはイスラエルに「ゴグ・マゴグ」のような大きなイベントは起こりませんでしたが、そのための決定的な準備がいくつかなされました。

   ヨベルの年の終了間際に、(みこころでない)”中東和平”をまとめた イスラエルのシモン・ペレス元首相(1994和平合意、ノーベル平和賞)が死去(2016 9/28)したのは、象徴的な出来事で、イスラエルにとって大きな霊的変化の時になったことを表しています。
  また、
   シリア難民が大量にドイツ(=「アシュケナズ」 < 「ゴメル」(創10:3、 エゼキエル38:6))に流入。(2015秋~、2015年末で100万人以上) → ゴグ・マゴグの準備、ロシアの掛け声でイスラエル大侵攻に参戦するため。
    また、トルコも、100万人受け入れを表明。(* 歴史家ヨセフスによると、「リファテ」 = パフレゴニヤ人、 「トガルマ」 = フルギヤ人=アルメニヤ人の祖 は小アジア(トルコ)に住んでいた < 「ゴメル」(創10:3))
    トルコは、ロシア、イスラエルとのとの関係を修復、ロシアのバックを得てシリアに対応。 クーデター未遂(7/15) 45000人粛清

   米国大統領選のトランプ氏の健闘、 中東における米国勢力が弱まり(世界の警察、にせユダヤ・フリーメイソンの弱体化)、ロシアが進出しやすくなる。
   この”トランプ”現象”は世界的にも影響し、さらに類似のこととして、イギリスのEU脱退の動きにもかかわっています。(イギリスは「パテロス島」(エゼ29:14)) (特に リーマンショック以来、)それほど、「にせユダヤ」の勢力が弱ってきたということでしょう。(**)
   どっちにしろ日本にとって良くありません。 トランプ:(保護主義により)ジャパン・バッシング、 ヒラリー:(日本より中国に向いて)ジャパン・パッシング

   ロシアのシリアへの本格参戦、 (プーチン大統領の見分けがころころ変わるのは、影武者が何人かいて、その最悪の人が本人ということ。 次の大統領選 2018年に再選されれば、2024年までとなり まだまだ先。)


  国内では、
   平成天皇の生前退位の”お気持ち”発表(8月8日)。 生前退位によってフリーな立場になり、天皇が自らクリスチャンであることを告白するなら、右ならえで信じる人が大勢いる。
のように、日本のリバイバルに向けて一歩前進した時期でもありました。

  (* この記事を書いている途中、10月27日、三笠宮様が亡くなりました。(100歳) 彼は昭和天皇の兄弟で、古代オリエント学(特に、トルコのアナトリア文化)の研究をされ、(故出光佐三氏(出光興産)とともに)中近東文化センターの設立にかかわり 名誉総裁を務められました。 対イスラエルについては、イスラエル親善協会を後援されましたが、政府の反対により イスラエル訪問は実現しませんでした。 イスラエルの学者との交流(アミシャブのラビ・アビハイル氏 等)もあり、日猶同族論的な議論もされたようです。(ただし日ユ同祖論には反対の立場))

  ・ 暴言と 強硬な麻薬取り締まりで有名な、フィリピンのドゥテルテ大統領は10月27日、日本から帰国した際、南部ダバオの空港で記者団に語ったことによると、 ドゥテルテ氏は日本からの帰途、機内で空を眺めていたら突然声が聞こえ、「ののしるのをやめないとこの飛行機を落とす」と警告されたと説明。「誰なんだと聞いたら『神だ』と言われた。だからもうしない」と話した。 ただ、記者から欧米への暴言もやめるのかと聞かれると、「タイミングによる」とはぐらかした。 ・・・ 三笠宮の件で急きょ謁見を取りやめた 天皇(・・・救われているので、本当の祭祀王となっている!)による「とりなしの祈り」があったのかもしれない。 ドゥテルテ氏もカトリックとは仲たがいしているが、神を恐れる人のようです。

  ・ また、大和カルバリー教会では、大物の仏教の僧侶が救われたそうです。 ((追加) その約一か月後の11月20日、西日本の高僧であるその人の葬式(93歳)が行われました。主日第3礼拝・1:01:40-1:02:10) 召される前に信じたそうです。大和カルバリーにはその人の子供が教会員でいます。)



  ∴  ゴグ・マゴグ主の介入(エゼキエル38:18-23)
  → イスラエルの領土拡大(創世記15:18、 エジプトの川~ユーフラテス川まで)
  → 残りの十部族帰還
(エゼキエル37:12、19、ホセア14:7、イザヤ49:21 等)

が立て続けに起こるための決定的な備えがなされた、というところでしょう。 また同時に、重要なしるしである”第3神殿”(幕屋と神殿 7.)が建てられるはずであり、終末へ向かって急激に進展していきます。


  ** (追加) 11/9 行政経験も軍歴もない(歴代初めて)、共和党候補の実業家ドナルド・トランプ氏(70、×)が、ヒラリー・クリントン(××)を抑え 僅差で、なんと 米国大統領に選出されました。 これで、「ゴグ・マゴグ」が大きく前進します。 また、保護主義や反グローバリズムの台頭による世界の経済活動の停滞、世界的なナショナリズムへ。(「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、」(マタイ24:7))


  * 2017 2/22 追加:

  秦の始皇帝のY染色体DNAが O2a2b1a1a(旧 O3、子孫からの推定) であり、 秦河勝も同じO2a2b1a1a であることから、 秦河勝は 秦の始皇帝の子孫である可能性が強い事が証明されています。(ちなみに徐福も同じ O2a2b1a1a(徐州の子孫の推定))。 秦の始皇帝は、体格ががっしりして、目の色が青かったので、形質がよく現れる母系遺伝(mt-DNA)は ヨーロッパ系に近い人種だったと思われます。 BC762頃に甘粛省の犬丘に初めて秦が国となり、この甘粛省は現在でも J系統(中東系、10%)のDNAがある地域。
  始皇帝陵の兵馬俑の労務者墓から出た50体の遺骨からは、型(mt-DNA)、すなわち、ユーラシア西部のパルシール人、ペルシャ人、クルド人のDNAが検出されました。(2006年・中国通信社、 N→R→T。 ユダヤ系のN1(= I ) や 日本のN9b、臨シ人のN9a とは分岐が異なる。 Tは、 HVなどのヨーロッパ人により近い。)

  また、殷は、Q1a2(帝辛の子孫) であり、 夏・匈奴(Q*、Q1a、Q1b1)や 周の貴族(Q1a1 (一般民はO2a、O3など))、南北アメリカの原住民(Q1a2a)と同じであり、 発祥は アフガニスタンのパシュトゥン人Q*(祖型) 16%、 Q全体で18.4%)。
  一方、同じ 旧 O3であっても、 坂上田村麻呂 O2a1c であり、 前の皇帝となった 劉邦 と同じであり、日本書紀・応神20年9月にある 坂上田村麻呂が後漢の霊帝の子孫である記事と一致します。

  藤原氏は、その直系の藤原清衡のミイラから O1b2a1a1であり、 O1b2(旧 O2b)の系統で、 多くの弥生人、 現在の韓国、中国東北、日本人 に分布する典型的なタイプです。 古い新羅人の有名人もこのタイプであり、比較的新しい時代に来た弥生人は、長江中流域から 山東半島、朝鮮半島を経由して 日本に来たことになります。(稲作や縄文人と共にいた関東の古い弥生人などは、一部が陸続きだった 南からの別ルート。)






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